思春期

 さて、僕のゲイとしての背景を簡単に綴ってみます。思春期以降、僕の最も苦手な話題が異性にまつわる話でした。今でこそ、ゲイだということをはっきりと自覚していますが、当時は混乱していたので、自分でもその理由はよくわかりませんでした。好みのタイプだとか、いわゆる下ネタだとか、そういう話題には積極的に加わろうとは到底思えませんでした。どうにもそれらの話題を発展させたり、自分の中の恋愛のイメージを相手に伝えるということは不得手だったのでした。ただ、男性の日常会話の多くを占める異性の話題に興味をしめせないというのは、特に、人間として未成熟な思春期の子供にとっては、コミュニケーションを妨げる大きな要因ともなりうるのです。そのうち面倒くさくなって、適当に好きなアイドルのひとりもでっちあげ、どうしても自分にそんな話題が降りかかってきたときにはその答えだけで乗り切るような、そんな男の子でした。

 思春期真っ直中の男の子たちが、好きな女の子の話ばっかりで盛り上がっているのは、今考えればそれなりに微笑ましくもあるのですが、いい年して、それ以外に話題が無い人々とはどうも距離を置いてしまうのです。特に今仲の良い人々の多くは、音楽だとか芸術だとか文学を解し、そういう話題で時を過ごせるのがこの上なく嬉しいのです。

 小学生の頃は、僕に好きな子ができることなんて無いのかも知れないね、と言われるような子だったのだけど、それを別段気にしたことは無かったし、かえって人とのその差違を喜ぶような子でした。エキセントリックな存在であることに憧れ、今考えるともの凄く恥ずかしい、どう考えても周囲から浮いてしまうであろう行動を、その当時は内心得意になってとっていたように思い出されます。

 小学校時代は、いろんな意味で自分にまっすぐでいられた僕でしたが、中学校に入るころになって、微妙に大人になりかけた人間の集まる場において、エキセントリックな部分が時に集団に溶け込めなくなることがあるとか、いままでの自分を否定するような方向に心を揺り動かしたのでした。その頃、どういう思いだったのか、僕はクラスのある女の子が好きだと友人に話したのです。確かに僕はその娘のことが好きだったと思うのだけれど、一途であることを自分の中で義務的にとらえたり、なんだか自分で自分に好きな娘がいるという暗示をかけ続けたようなところもあって、いま冷静に考えると、それが本当に初恋だったのか疑問も残るのでした。 まあ、一応僕にも異性に惹かれる要素が多少はあったようで、確率は少ないのですが、誰かを少し好きかな、と思うと、その思いを一生懸命ふくらませなくては、と焦っていたのだと思います。

 本来、僕の中でその確率が限りなく低いということを知らないまま、異性に恋愛の対象を見つけるのは本当に下手くそで、一度に二人も三人も憧れの人がいるなんて状態を理解できなかったのです。そのあと、高校時代に一人、大学に入ってから一人、二十何年も生きてきて、片手で数えられるくらいしか本気になれる恋愛の対象を見つけたことがありませんでした。もちろんその思いは一方通行であることも多いから、分母の数が少ない僕にとって、真にドキドキする恋愛の期間は本当に短いのです。

 もちろんそういった対象以外の異性とも、遊びに出かけたり、食事をしたり、僕から誘ったり、相手に誘われたりと、その時々でいろいろな人とデートもしたけれど、本当にこの人と恋愛がしたいという人にはそうは巡り会わなかったのです。

 当時、以下のように自分の恋愛を解釈していました。

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 僕は人付き合いに関して、この場合は同性も異性も年齢層も様々、全て一括りになるのだけれど、半ば恋愛的な関係を築こうとするような部分があるようです。この恋愛は、いままで言った恋愛とはちょっと意味が違うし、友人という語ともニュアンスが異なります。上手く説明できないのですが、僕の中で、人間関係にそれほど性差を感じなかったり、多数派とは細かな点で感じ方が違うと思うのです。

 例えば女性も数多く、自分の大切な友人の一人に位置づけたいという意味での愛を感じる対象になっているのですが、先述の一般的な異性愛、恋愛の形とは僕の中で明らかに区別されているのです。ただ、僕がその一般的な恋愛が下手くそなのは、この僕なりの愛の形の中で処理してしまう事柄があまりにも多いために、一般的な恋愛との境目がはっきりしなくなってしまうからかも知れないとも思うのです。

 ただそうなると、僕は性別とか、年齢とかそういうことをそれほど気にせず、容易にかなりの幅の人間を恋愛対象としておいているわけで、一度に二人や三人どころか、何十人、何百人に憧れているということになるのでしょうか。

 僕の考える恋愛と、一般社会の考える恋愛がシンクロナイズされた少数の例が、中学校時代に始まり、いまだ数人しか数えることのできない、僕の「恋愛」対象だったのかも知れません。 僕はずっと、僕の僕なりの恋愛感情を理解するために、一般社会に流布されている恋愛の枠を持ち出して考えていたし、その枠にどうもすっぽりは収まらない自分の気持ちにイライラしたり、片思いも含めた恋愛対象が誰一人いないという時期に焦りを覚えたりしていたのだけれど、もしかすると、世間がつくった枠を通して考えること自体が間違っていたのかも知れません。
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 まあ、結局は、今から振り返ってみると、同性を対象にしてみると、その時々で、しっかりと恋愛の対象がいました。もちろん、異性愛者が、異性なら誰でも恋愛対象にしないのと一緒で、同性愛者も、同性をすべて恋愛対象にしているわけではありません。僕の中で、いろんな情報にゆがめられて、自分が同性愛者では無いという思いと、自分の感情や性欲との矛盾を、どうにか処理しようと悩み、さらなる混乱をしていたのです。そういった恋愛の対象と、単に友人としてであって、恋愛感情のない同性とをいろいろごっちゃにしていて、本当に自分が恋愛感情を感じていた部分を、友情の延長として理解しようとしたのですから、混乱して当然だったのですけれど。