一般的知識

 同性愛というのは、なにかと多難な道を歩んできました。正義をきどりながら、宗教や政治やいろんな思惑は、それ自体を罪とするような歴史を築いてきました。それによって、いわれのない罪悪感にとらわれなくてはならない人間がいるのです。僕にはそれを罪悪とする理由がわかりません。また、同様に、病気とする根拠もわかりません。医の領域でも、かつてはあきらかな異常として扱われていました。しかし、現在では、精神医学的にも、同性愛を治療の対象と考えることはないはずです。しかし、実際、医療従事者をとっても、同性愛を蔑視したり、冗談の対象にしたり、さして一般とかわるところのない扱いが多いのです。

 以前に比べれば、同性愛者という存在が、普通の社会に存在するということは広まってきてはいるのですが、かといって、完全にオープンにすることは難しい場面も多いのです。同性愛者として、自分をよく理解した上で、罪の意識も病気の意識もなかったとしても、オープンにできないことがまだまだ多いのです。まだ、同性愛がゴシップとして成立する社会なのです。それをはねのけて、ゴシップにする前にみんなでカミングアウトすればいい、というのはセクシャルマジョリティーからみた強者の意見だと思います。

 少し前には、同性愛というのは、先進国の堕落し、乱れた文化だと言うような人が大勢いました。また、同性愛なんていう問題は無いのだ、という人もいます。その証拠に、自分は同性愛者に会ったことがない、というのです。これは先にも述べたように、みながオープンにできない社会なので、出会った人が同性愛者かどうかわからない、というのが実情なのです。

 男か女かという二分法自体が、実は正しくないのだという考え方があります。これは、虹のようにグラデーションを描くものではないか、と言われています。これは、一口に異性愛者、といっても実は多様であるということにもなります。しかし、例えば、異性愛の部分が8割くらいあって、同性愛の部分が2割くらいだったとすれば、確率的に、異性に恋愛を求めることが多くなるだろうし、同性愛の部分は自覚せずにすむのだと思います。この割合によって、恋愛対象はいろいろ変わってきます。また、恋愛対象以外に、自分の性の自覚、体としての性、性の要素はいろいろあって、それぞれは本来多様であると言われます。

 今でこそ、インターネットの普及などで、そういった多様なゲイがいるという事実を知ることができますが、僕が思い悩んだような思春期には、そういった情報は皆無に近かったのです。そして、テレビには、「ニューハーフ」とか「マッチョ」などといった、ある誇張された部分だけが登場していました。自分の性的指向が同性に向いているかな、と思ってみても、でも、テレビに出てくるような「オカマ」ではないな、と結論づけるのです。しかし、心のもやもやをどうにもできず、誰にも相談できずに悩んでしまうのです。

 また、こういった性のグラデーションの中に、自分の心の性と体の性の不一致、すなわち「性同一性障害」といったものを混同しがちですが、これらは本来全く別の次元の事柄です。性同一性障害イコール同性愛、ではありません。例えば、僕は心の性も体も男性であって、ただ、恋愛対象が男性であるのです。もちろん、性同一性障害の方々の恋愛の対象もやはり多様です。

 精神疾患としてとらえようと、同性愛の成因について、生活環境説、ホルモン説など、いろいろ言われていましたが、そういう要素を全て取り除いたとしても、数パーセントの割合で同性愛者は存在し、その性的指向は修正がきかないものだということが分かってきています。先ほどから、「指向」という字を使っています。あくまで「嗜好」ではありません。趣味とかそういう次元ではなく、もっと奥底に根ざしたものです。これらのことからも、同性愛者が、社会から差別されるいわれはないと思われます。

 さて、日本以外の国ではどうなのでしょうか。なんとなく、外国では同性愛者に優しいというイメージがあるかも知れません。確かに、同性婚を認めたり、パートナー法などの制定で、同性愛者の権利を認める流れがあります。その一方で、ソドミー法という、同性愛禁止法が残っているところもあります。アメリカでも、保守的な多くの州にこの法律が残り、最大終身刑を規定しています。イスラム圏では、同性愛者であるという理由だけで、死刑に処されることがあり、そのために難民まで発生しています。そんな社会環境で、果たして「自分は同性愛者である」と言える人間がどれくらいいると思いますか。

 生物学的に云々、神様の教えが云々、というのはこじつけだと思います。子供ができないという点には、「子供ができない男女の夫婦はいけないのか」という反論がよくされているところです。子供が欲しいと思っている同性愛者もたくさんいて、それについても悩んでいるというのに、社会はそれに追い打ちをかけるのです。いずれにしても、同性愛者がひっそりと苦しんで暮らさなければいけないというのは理解し難いのです。

(某書の記述に似ている点が多いと思われますが、これはきちんと著者の許可をとっています。いろんな事情で、はっきり参照元を示さず、曖昧にしてありますが、そっとしておいて下さい。)