カミングアウトするべきか?

http://d.hatena.ne.jp/matsubee/20051124/p1

自分は、今はまだ隠し通すべきだと意見しました。これは純粋に、良心から出た意見です。まだまだ日本では、ゲイに関しての理解が足りない。高校生にとってそれを理解するのは、絶対に容易なことではないだろう。直接かつ今のところ唯一のカミングアウトを受けてもなお若干の差別者である自分の存在が、それを立証しているから。
それを聞いて、彼はやはり悲しそうな顔をして、それでも必死に笑顔を繕って、ありがとうと言いました。それを見て、自分はものすごい罪悪感に襲われました。でも、これが現実だと、自分はそう思います。周りがもう少し大人になるまで、カミングアウトすることは容易には許されない。

カミングアウトというのが、理解を求めるもの、と考えてしまうと、お互いに辛くなってしまうと思います。これは、別に同性愛という性的指向に限った話ではなくて、相手のことを真の意味で「理解」するのは非常に難しいことだと思うからです。だから「理解が足りない」ことを苦にすることはないと思うし、それは「若干の差別者」とは限らないと思うんです。僕個人的には、カミングアウトを受けてなお、「大切な友達」だと思っているという、その感情で必要十分だと思います。これも僕の個人的見解ですが、受け入れろ、理解しろ、っていう思いよりも、自分を偽りたくない、嘘をつかないで話したいという思いが強いと思うし、なにか重いものを相手に押しつけるようなこともしたくないのです。
周りが大人になったら、カミングアウトを受け入れるのかと言うと、それもまた難しい気がします。かえって、高校生ぐらいの柔軟な時期のほうが、受け入れてもらいやすいかも知れません。ただ、これには性的成熟の個人差もあるので、難しいところですが。
僕が高校生の頃は、インターネットもまだ個人では利用できなかったし、同性愛に関する情報なんて皆無でした。しかも、自分が実は同性愛者であるということに気付かなかったために、性的知識自体が乏しかったのです。今になって振り返れば、異性愛にあまり興味がなかったのであたりまえの話ですけれど、当時の僕は、どちらかというと性的な接触に嫌悪のようなものまで感じていて、プラトニックなものを追い求めていました。おそらく、性欲は同性に向いていたので、社会的に正しいとされていた、異性愛の部分を、肉体的な部分ではあまり感じられなかったので、精神的なものを希求したのだと思います。
僕自身のカミングアウトについては、また後日綴るつもりなのですが、徐々に仲の良い人たちにカミングアウトしていったのは、周りが大人になったからとかそういうことではありません。原点は、引用先の記述のように、「自分を偽る」ことが嫌だったというのがあります。
医者として働いていて、ほとんど休みもなく、ようやく作った時間にわざわざ会うような友人たちに、自分を偽ったまま接するのが嫌になったのです。しかし、このカミングアウトの目的は、相手に嘘をつくのは悪いことである、というような綺麗事ではなくて、僕の場合は、自分のエゴです。そういうことをオープンにしてつきあうか、それによって関係が壊れるくらいのものであるならば、その限られた時間の中で関係を維持することもないかも知れないという、漠然とした思いの中での実行でした。ただ、無差別にカミングアウトしたわけではなく、本来一生つきあっていくべき両親や兄弟、親族にはまだ一切していませんし、職場にもしていません。趣味などで繋がっている、今でも頻繁にあう友人たちにも、全部にカミングアウトしているわけでもありません。必ずしもカミングアウトする必要を感じられなかったり、そのタイミングが会わなかったりした場合は、ごく親しい(と自分では思っている)人たちにも、カミングアウトしていない例もあります。なんだろう、この人にはすべきでないと、第六感が教える相手もいます。うまくまとまりません。引用先のテキストに触発されて、思いつくままに書いてみましたが、なんだかよくわからない文章になってしまいました。もともと、まとめて書こうと思っていたテーマですので、後日、改めて整理したいと思います。