日本の仏教と同性愛

 仏教における同性愛を考えてみます。仏教においては、一神教にあるような、同性愛者差別の歴史はあまり知られていません。教典で同性愛を禁じているものもあるようですが、あまり声高に叫ばれているものでもないようです。仏教の立場からの同性愛を否定するような言葉としては、チベット仏教ダライ・ラマが1997年にサンフランシスコで「同性愛者は人間としての尊厳と権利をもつとしながらも、同性愛行為そのものは仏教の戒律に反する」という説法を行ったことがありました。しかし、全体として、キリスト教イスラム教社会に比べると、仏教社会では、異質なものを比較的に寛容に扱うような面があるように感じています。

 また、世界の仏教国が似たような文化を持つ部分はあったとは思いますが、その国によってかなり扱いが異なり、独自の発展を遂げている部分が大きいように思います。ですから、一口に「仏教における同性愛の扱い」ということを言うのは難しいので、あくまで、日本における同性愛の歴史を、仏教文化と絡めて綴ってみます。

 ちなみに、「同性愛(homosexuality)」という言葉がはじめて成立したのは1867年のことです。これは、ハンガリーの医師カローイ・マリア・ケルトベニーによって、病名として用いられたものです。はじめて同性愛というものを定義的に扱った言葉が「病名」としてのものであったため、その言葉とともに差別的な要素がしつこつ付きまとう一因となっているわけです。

 いずれにせよ、言葉が存在する以前に、概念としての同性愛というものは、はっきりとしていなかったのであろうと推察されます。しかし、概念としてはっきりする以前にも、日本にも同性愛が存在したことが知られています。

 日本における、最古の同性愛の記述は「日本書紀」であると言われているようです。そこで男色は「阿豆那比ノ罪」という言葉で語られています。日本書紀第九巻の中に、次のような内容が記されています。「神に仕える身である小竹祝と天野祝は互いに深く想いあっていた。小竹祝が死んだ時に悲しんだ天野祝は後を追った。そのため付近の土地は光を受けず夜のように暗くなってしまった。彼らが阿豆那比ノ罪を作った」

 後述しますが、日本においては、同性愛が罪として捉えられるのは、近世以降、西洋文化流入に伴ってのことと言われています。ここでは、同性愛ということ自体が罪なのか、「神に仕える身でありながら」というところがポイントなのか、はっきりしませんが、いずれにせよ、ここに「罪」という言葉を使っているのは興味深いところだと思います。その一方で、この関係を、「善友(うるわしきとも)」と書いています。日本において、愛と友情の境界があまり明確でなかっということを伺わせるものでもあります。

 日本書紀においては、実際の生活の中に同性愛が存在していたのか、許容されていたのかということははっきりしません。日本において、同性愛が社会に定着したのは、平安時代の仏教界という有力な説があります。これは、留学先である中国からの性風俗を輸入したものと考えられています。同性愛の対象となる稚児は仏の化身とされ、同性愛は仏性と交わる宗教的な意味を持っていたといいます。これは、ギリシャ・ローマ時代時代、ローマの神々を祭る神殿での、「神殿娼婦・神殿男娼」を介した神と交わる儀式に通ずるものを感じ、興味深いところです。自由恋愛や、性欲の発散ということとは、また違った意味を持っていたもののようです。

 この時代の書物にも、同性愛に関する記述は数多くみられます。「続日本記」には、天武天皇の第七王子である新田部親王の子で皇太子の道祖王が侍児と男色行為をし廃太子になったという記述があります。「伊勢物語」にも「うるはしき友」に恋をする内容が描かれます。有名なところでは、「源氏物語」に同性愛が登場しています。

 一方、極楽へ行くための方法を記し、平安時代に流行した「往生要集」の中では、同性愛が罪であるとはっきり書かれています。「おとこが男に愛著して邪行を犯したるものここ(地獄)におちて」というように、同性愛は地獄へ行く罪とされました。日本において、仏教の経典の中に同性愛を禁じる記述があるのは、この影響も大きいとされています。しかし、社会は「同性愛禁止」をあまり問題視せず、むしろ貴族・僧侶の世界ではさらに盛んになっていったようです。

 そうして盛んになった同性愛は武家社会に普及していきました。それは「衆道」と呼ばれ、年長者が年少者を愛し保護する一方、年少者は年長者からの愛を受けて忠義を尽くすという封建社会的なものがあったようです。「葉隠れ」には男性の同性愛を至高の愛の形態とする記述もあります。鎌倉時代の史書「吾妻鏡」には稚児を扱う多くの記述が登場していますし、「増鏡」でもごくありふれたこととして同性愛がとりあげられています。多くの戦国武将がこの「衆道」を行っていました。ただ、これもあくまでも主従関係の延長としてのものであり、自由恋愛というものからはほど遠いものであったと考えられます。

 この時代までの「同性愛」は、対象が少年であり、また、その背景に宗教的意味や、主従関係などが存在しており、現代における同性愛とは区別する必要があります。文化的同性愛とでもいうようなものでしょうか。先ほど、仏教における同性愛に、キリスト教以前のギリシア・ローマ時代の「神殿男娼」に通ずるものを感じると述べましたが、「衆道」には、古代ギリシアプラトニック・ラブ(もともとは、当時一般的だった同性愛=少年愛をさしているものといわれる)を類推させます。ギリシア・ローマも、もともとは「多神教」を信じる地域であり、このあたりに、日本と似たような背景を有しているのでしょうか。この神殿男娼が、キリスト教によって徹底的に批判されているのは、以前キリスト教の話題で書いた通りです。

 江戸時代には、同性愛は庶民にまで広がりました。ここからは、制度化された同性愛文化というものから、自由になる様子がうかがえます。しかし、現在の同性愛とはやはりわけで考える必要があると思います。「文化的同性愛」は、純粋な同性愛というよりは、「両性愛」という側面が強かったし、江戸時代の同性愛は、「奔放な性」という意味合いが強いように感じるからです。

 江戸の町では、「陰間茶屋」などを通じての同性間の売春行為が容認されていましたし、男色文学なども存在しました。「東海道中膝栗毛」の北さんや白浪五人男の一人、弁天小僧菊之助などは「陰間上がり」という、元男性売春者という設定です。井原西鶴著「好色一代男」にも、男性間の性交渉が描かれています。この頃になってはじめて「男色」という言葉が用いられはじめました。

 ずっと男性間の同性愛についてのみ述べてきましたが、女性間の同性愛については、ほとんど知られていません。日本においても、ずっと女性の地位が低く、男性中心の社会であったため、女性の自由意志での性的関係というのは、ほとんど認められていなかったのだと思われます。

 江戸時代に至り、外国人が驚いて文章に残すほど、奔放に同性愛を受け入れていた日本ですが、明治以降、極めて短期間に、社会は同性愛を否定します。やはり、ここには西洋文化流入という影響が大きいと思います。もともと、日本において性は非常に自由なものであり、趣味や快楽として楽しむべきものだと考えており、そこに西洋的「倫理」などが入り込むことはありませんでした。そのため、江戸時代までの日本においては、人々の性行動は多様でしたし、それが正常か異常か判断する基準を持っていませんでした。

 しかし、西洋医学、あるいはキリスト教的価値観に裏打ちされた西洋社会の倫理において、性行動も、はじめて正常と異常に分類されることになったのです。当時の西洋社会の扱いに従って、同性愛は「異常」で「病的」とされました。また、同性愛に限らず、奔放な性は罪とされました。こうして、同性愛は「医学的には異常、倫理的には罪悪」と決められてしまいました。

 そうして、明治以降、同性愛を批判する書物が増えてくるようになりました。また、日本の歴史において、唯一同性愛が禁じられたのがこの頃です。「改定律例(1873〜82)」において、男性同性愛が処罰の対象とされました。ただし、これはその後の旧刑法には規定されず、現在まで、法律で規制された時代はありません。