同性愛者の権利

 ごぶさたしています。
 先日、あるゲイの友人と話していたのですが、その彼も、社会に向けて強く権利を叫びたいとか、そういう思いは無いらしいのです。僕らはどうあがいたところで、やはり少数派であることは確かで、多数派になることはありえません。僕らが多数派になるということは、少子化という話を飛び越えて、人類の存亡に関わる事態であり、そうした意味で、やはり自然ではない何かがあることは事実なのです。
 僕はたまたまゲイであるということに気付き、ほぼ男性しか愛せないからそうして生きているし、別にそれに対して必要以上の悲観はしていないけれど、異性愛者として生き、結婚し、子を産み育てるという生活への憧れは持っているし、それはやはり自然な生き方だとも思うのです。
 しかし、一定の割合でゲイが存在するというのも厳然たる事実、自然のことなのであって、それを多数派か否かという意味、生殖という意味だけでの「不自然さ」故に否定されるいわれは無いと思っているのです。そうして僕は、多数派でないが故のある程度の不自由さは受け入れた上で、静かに生きていきたいと思うのです。
 先ほどの友人は、かつてゲイがもっと社会から隠されていた時代のほうが良い面も多かったと言います。社会に存在を認められないが故に、群れ集まる場所があり、時間があったことで、不思議な一体感や安らぎを感じていた人は少なくなかったはずだ、と。別に間違ったことをしているとは思わないのですが、「ならば隠さずに堂々としなさい」ということが必ずしも正しいということでもないと思うのです。
 現在、インターネットなどの力で、多数派の人間が、今までは意識しなかったような世界の存在を知るようになったし、同時に当事者が、自分と同じような人間が存在するのだということを容易に知ることができるようになったので、そういう意味では群れ集まる場所までの距離は近くなったのかも知れません。しかし、そこまでのアクセスが見た目として近くなったことで、ある程度隠れることを求めていたタイプの人間にとっては、もはやそこが群れ集まれる場所ではなくなってしまうのかも知れません。
 社会から隠れることを良しと考えるタイプの中でも、極端な方々は、そもそも世のゲイたちが権利をアピールするような運動を嫌がります。逆に、ゲイの権利をアピールすることを至上とするタイプの中で極端な方々は、身を潜めて、ひっそりと生きようとするゲイを嫌います。
 僕自身は、冒頭に書いたように、権利を声高に主張するということもありませんが、必要以上に身を潜めることもなく、僕なりに自然に生きているのです。
 職場や家族にはカミングアウトをしておらず、これからもするつもりはありません。そういう対象は、ゲイという存在が当たり前のものになっていないからこそ、僕をゲイだと思うに至らないのだと思います。その一方、異性愛者も含め、親しい友人の一部には自分の性的指向をうち明けた上で、それ以降も良好な関係を維持しています。
 また、ゲイパレードなどの、「権利を叫ぶ」方にベクトルが向いたような行事に参加することもあります。尤も、少なくとも日本のパレードは、アピールするというよりは、単に性的少数派同士が「群れ集まる」という部分の方が大きいのかも知れません。語弊や誤解があるとは思いますが、こうした現状がなんとも「日本的」だなあと思うし、日本のゲイにとって、決して悪くはない環境なのかも知れないな、と思うのです。
 田舎のあたたかさというのは、実のところムラ社会としての、その地域のある程度固まった思想や価値観に同化できる人にとってのあたたかさであって、その価値観からはみ出してしまった人間は、多用な価値観が渦巻く都会に身をおいてしまうか、あるいは、別のムラを探さなくてはならないのでしょう。性的少数派にとっての都会というのは、割合として少ない、同じ性的指向の持ち主に出会う確率を高める場所であり、どうやっても異性愛者としての「正しい」思想に同化できず、「正しい」ムラで「正しく」生きられない人間が、その土地に同化せずとも生きられる場所です。そして、その中でもやはりムラ社会を求めてしまう同性愛者にとって、都会の中に隠されて存在する同性愛者のコミュニティーというのが心地よいのではないでしょうか。
 先ほど述べたように、「同性愛者の権利推進派」は、そうして社会から隠れて群れることだけを良しとする人を嫌い、そのムラに居続けたい人は、あまり強い権利や存在の主張を嫌うのかも知れませんが、多くは、そのどちらかに偏るということではなく、適当なバランスをとって生きているのではないでしょうか。ムラの閉塞感を嫌いながら、別のムラを探すというあたりは、ゲイに限らず、少なくない日本人の行動なのかも知れません。