同性愛の「治療」

 同性愛を治療できるかという話。結論から言ってしまえば、僕は不可能だと考えています。ただし、それは同性愛を受け入れている一個人の単なる思いであって、治療できるものなら治療したいと考える当事者がいてもおかしくないとは思っています。重要なのは、何事も強制すべきものではないということです。個人的感想としては、同性愛を治療しようとした歴史は、同性愛者にとって不幸であっただけだと思っていますし、同性愛という性的指向は、深く人格の根底に関わる部分だと考えていますので、それを変更することは、ほぼ人格を改造することに等しいという思いが強いのです。

 以前も書いたことがありますが、同性愛は、精神障害として治療を試みてきた歴史があります。例えば、イギリスで始まり、しばらく世界中で広く用いられたものに、電気ショック療法があります。ある宗教団体で、現代においても同性愛者に対して強制的に行われているとの噂もあるこの治療は、同性の裸の写真を見せながら電気ショックを与えるというものでした。あまりにも乱暴なものであり、「治療」効果もほとんど認められませんでした。

 現在、国際医学会やWHO(世界保健機構)では、同性愛は異常なものとはみなしておらず、治療の対象からも外されています。同性愛などの性的指向については発達障害などとは別のもので、矯正しようとするのは間違いとの見方が主流です。日本でも国際的な流れに従い、1994年には旧厚生省が同性愛を疾病リストから除外しました。また、その翌年には日本精神神経医学会も同性愛は疾患ではないという見解を明らかにしています。

 僕自身、当事者として、また医師として、同性愛というのは治療できるようなものではなく、また治療すべきものでもないと考えています。一部には、宗教指導者などを中心に、矯正を試みる動きも存在はしています。しかし、僕は、例えば「赤色が好き」といっている人に、無理矢理それを否定し「青色を好き」にさせるための「治療」に意味が無いのと同じようなものだと考えています。また、それがあくまで「異常」であり「治療の対象」あるいは「宗教的背徳」とされてしまうことに強い抵抗感を感じています。

 確かに、僕も普通の異性愛者であったならば、いろいろと悩まずにすんだだろうなと思うことはたくさんあります。しかし今では、ゲイであるということで知り合えた人々や新しい世界に感謝していますし、自然な自分として、ゲイである人生を全うしたいと考えています。

 もちろん、同性愛者である自分が嫌で、精神的に苦痛だという人が大勢存在するのは、僕自身も当事者であり悩んだ過去もありますから、もちろん理解できます。また、そうして苦痛に感じる人間がいる以上、それを「治療」しようとするという考えも間違いではないとは思います。

 生命の危機や身体的苦痛、疾患に伴う社会的な不都合を治療することと比較して、「精神的な疾患」の治療は全般的にわかりにくいものであると思います。ホルモンや神経伝達の異常によって惹き起こされる精神疾患に対して、科学的にある程度証明できる範囲での薬物治療が行われる一方で、いまだその病態が解明されず、経験的に効果があると思われる治療が行われている部分も、身体疾患に比べて非常に多いです。社会的、医学的コンセンサスとして、また、僕自身の考え方として、科学的にはっきり病因がわかっていなくても、精神症状の結果が社会生活にそぐわないものであれば、治療が施されなくてはなりません。それ以外に、例えば審美的な問題に関しては、社会的な問題や、生命の危機などには繋がるものではありませんが、例えば単純に外科的な処置を施すことで対応できる部分も多いと思います。

 ただ僕は、同性愛者が社会生活を営むにあたって、正常な判断力を欠くような状態とも、その「異常」によって生命に危機を及ぼすものでも、他者に危害を加えるという意味での「反社会的」な存在とも思いません。その上で、個人の意識の根底に関わる部分を変えるというのは、冒頭に述べたように、人格改造とか洗脳に近いものという印象があります。例えば、異性愛者にも、好みの異性というのは様々であり、その好みが一般的ではないからといって、「治療」を受けてどうにかなるものなのでしょうか?

 僕自身は、ゲイであるということは僕であるということだと思っています。僕がゲイでなくなるときは僕ではない人格なんだと思うのです。正直なところ、いまだに、結婚もしたいし、自分の子どもも持ちたいと思ってはいるのですが、僕はほぼ男性しか愛せないのです。どんな色が好きだとか、どんな食べ物が好きだとか、どんな本が好きだとか、そういう説明できないレベルで、僕はゲイなんだと考えているのです。

 僕は外科医であり身体科医なので、精神疾患に関する専門家というわけではありませんし、同性愛ということについても、当事者であるというだけで専門家ではありません。そして、僕は自分がゲイであることをほぼ受け入れています。そういう意味で、同性愛を治療したいと考える当事者の方々とは、意見を異にする部分は多いと思います。しかし僕は、持ってうまれたその人特有の性的指向(この時点で異論もあるのでしょうけれど)を治療しようと言われることは、やはり、自分たちが「異常な存在であり、治療すべきものだ」と世間に言われているようであり、不快で受け入れがたい部分が大きいのです。

 繰り返しますが、自分の本当に好きなものを「治療」によって修正するというのは不可能なのではないかと思っています。「洗脳」によってそれが変更されたということは、人格の破壊であって断じて治療ではないと思っています。

 同性愛者はきっと身近にいますが、少数派であり、多くの場合隠れています。同性愛者の友人や恋人をつくるということには、異性愛者が目に見える存在である異性愛者の中から気の合う人間とつき合うのに比べ、多大な力を必要とします。そして、そうした一歩を踏み出せない同性愛者にとっては、自分が同性愛者からも否定されているように感じるようです。しかし、僕の感覚としては、同性愛という性的指向を変更するということのほうが、それよりも相当に多大な力を必要とするように思えるのです。もちろん、人によってその感覚は違うでしょうから、同性愛者であることを自覚しながら、それを「治療したい」という思いを根底から否定するものではありません。

 同性愛者の友人をつくるにあたって、最初の一人という入り口を開くのには相当な力を要しますが、そこからの繋がりなどで、それ以降はかなり楽に広がる部分もあると思います。もちろん、最初の一人の人脈にもよるでしょうし、同性愛者だというだけで誰とでも仲良くなれるわけではありませんけれど。

 僕がゲイの友人を初めてつくったのも二十代後半でした。様々なとまどいの中、数少ない自由時間を使って懸命に切り開いた道です。その当時は、自分が同性愛ということを受け入れているのかどうか、自分でもよくわからない時期でした。ですから、同性愛ということを自覚しているのであれば、その後どのような方向へ進むにしても、同性愛者の友人をつくってみるのも悪くはないと思います。少なくとも、現時点では「治療」ということを考えるよりは、よほど少ない力で切り開ける道だと思うのですけれど。