同性愛者のライフプラン

 僕は、自分が同性愛者だということを理解する上で、当初、数パーセントの異性愛の部分を意識していました。しかし、今考えてみると、それは、結婚とか出産とかいう可能性を残す上で、自分の素直な感情に嘘をついていた部分なのかもしれないなとも思うのです。
 恋愛ということを飛び越えて、家庭が欲しいなと思ったりするのです。惚れっぽいところがあるのは確かですけれど、精力的に激しい恋愛を繰り替えすというタイプではないんだといます。一人に慣れてしまったというだけなのかも知れませんが。
 子供が欲しいなという思いも日に日に強くなっています。恋愛を飛び越えて子供や家庭を得るのであれば、恋愛ではない信頼関係のもとに、異性との結婚もありなのかもしれませんが、現実には相当難しそうです。養子をとることを本気で考えたりもするのだけれど、その子供に嘘をつきたくはないし、社会から奇異な目でみられるような業を背負わせたくもありません。他人の人生に介入するのには、相当な責任が生じます。
 両親が生きているうちに、もしそういう選択をするならば、セクシャリティについてちゃんと話さなければならないのでしょうか。でも、僕は両親にはカムアウトするつもりは全く無いんですよね。根拠のない予想だけれど、両親へのカムアウトは、誰も幸せにしない気がするのです。誰に恥じることでもないのだから、すべてオープンにすればいいというものではないと考えています。
 おそらく、少なくともはっきりとして拒絶はされないとは思います。でも、なんとなくよい方向への道筋は見えてきません。僕の家の場合は多分、うやむやになっちゃうのがベストなんだと思うんですよね。
 幸いなことに、自分が食っていくということに関しては、今のところおおむね安心していられるのです。医療の現場で働いていくのには、様々な問題もたくさんあるのは事実ですが、なんだかんだいっても、国家資格を持ってるってのは強いと思います。いままで僻地の病院などを渡ってきたことで何でも屋的なスキルを身につけたのと、一応消化器病とか内視鏡を専門と言ってもいいかな、という武器もあります。
 同世代のノンケたちは、おおむね結婚し、子供を授かっています。そうして、生活の中心や人生の目標をうまいことシフトしているのではないかと思います。ノンケが季節感のある人生を歩むのに対し、キャピキャピの恋愛期、人生の夏を謳歌できるようなタイプのゲイはホント年をとりません。僕自身は、そろそろ秋を迎えたいと思っているのです。普段、夏が好きだといっているのは、夏という季節への愛というよりは、その後の季節への恐れがあるんだと思います。
 人生としての実りの秋を求める一方で、毎年季節としての夏が終わることに対して相当な哀しみと喪失感を味わっています。これは、人生としての秋を迎えられないということに対しての不安や恐怖を、実際の季節に重ね合わせてしまっているのかも知れません。
 ノンケのように、家族を養うとか、子供の未来を期待するというライフプランがない以上、本当に自分という個人のことだけを考えることになります。そして、僕には大学で偉くなるとか、過剰な高賃金を求めるとかいう欲求がないので、医師免許だけしたたかに使って、もっと自由に生きればいいのではないかと考えるわけです。
 もともと、わりと極端な意見をもっていたり、組織のために自分を犠牲にしたくないと考えていたりすることもあって、ずっと田舎に住んで、医局に属してというのは難しいだろうということはなんとなく考えてはいました。早い時期からいろんなことを考えて、母校を離れて都内で働いている同級生たちからも、よく、僕のようなタイプの人間は田舎よりも多くの価値観に触れる都会に住むべきだといったことを言われ続けています。そうしたことを言ってくる相手は、カムアウトはしてあったりしてなかったりいろいろですが、セクシャリティに関係なく、そういった雰囲気を身にまとっていたのかも知れません。
 実のところ、セクシャリティ以外の理由では、田舎がそんなに嫌いというわけではありませんし、今住んでいる場所にも相当に馴染んでいます。しかし、この狭い土地では、僕のような少数派が幸せになるための価値観を見つける可能性が小さくなってしまうのは事実です。この感覚は多数派の人間にはなかなか理解できないかも知れません。