ゆるやかなコミュニティー

 先日もまた、よく食事に招いてくれる友人夫妻宅へ。長男は2歳半。僕を愛称で呼び、あわよくば何かおみやげをもってきてくれるおじさんとしてしっかり認知されている。数ヶ月前に彼に妹が誕生した際に、母親が「たーたんの宝物は、あなたとあなたの妹だよ」と話しかけたら、彼は自分の宝物は僕だと答えたのだとか。「宝物(おもちゃ)を持ってきてくれる人」と勘違いしているのではないか。

 友人夫妻は、僕の性的指向を知っており、さらには、その家に集う友人たちのほとんどもまた、それを知っている。いまだ両親にカミングアウトしていない、するつもりもあまりない僕にとって、彼らの家庭は、もっとも心を開いて過ごせる場所の一つになっている。

 昨日集まった友人たちの多くから。入籍したとか、近いうちにする予定だとかいう話をたくさんきいて、結婚式にお呼ばれするなどした。結婚と言うことがあまりイメージできなかったような人々が、次々に結婚していくのをみていると、それが人生の様々な形の一つの形態に過ぎないとは言え、やはり生命として自然に帰結する場所なのかも知れないなとも思う。

 幅広い年齢の方々と親しいおつきあいをさせて頂いていることもあり、毎年たくさんの結婚式に呼んで頂く。数年前に、「今年がお呼ばれするピーク」なんて思ったことがあったけれども、さらに若い世代へ、若い世代へとつきあいが広がるために、翌年以降もコンスタントに誰かの結婚式にお呼ばれしていたところへ、今年から来年にかけては、同世代の中でまだ結婚していなかった友人たちがこぞって結婚を決めたために、数年前のピークを超えて、また喜ばしい席へご招待頂いている。

 若い世代へと交流を繋げていくのは、僕が若くて綺麗な男性を好む傾向にあるということだけではなくて、おそらく血縁という意味での子孫を残すことがないであろう自分が、擬似家族的な何かを求めての行動という気もしている。最近の僕は同性愛者というよりは、無性愛者とでもいうべき心境にもあって、性的接触の欲求よりは、ゆるやかな友人関係というよなコミュニティーを希求しているような気がする。

 友人夫妻の子どもたちへの愛というのは、自分の子どもの成長をみているような喜びを感じさせてくれるのと同時に、やはりその子は友人たちの家庭の中に存在するものなのだという一種の壁を改めて感じ、いいようのない寂しさにとらわれたりもする。

 僕はかつてより、教育を受けられない子どもの存在や、それに伴う貧困の連鎖ということに強い懸念を感じており、自らの手でどうにか介入できないかということをずっと考えていたし、そういうことを時折ネットで書いたりもしていた。それと同時に、僕はせいぜい「偽善者」にはなれるけれども、真の慈善を行うことはできないということをしっかり自覚していた。なんらかの見返りがなくては善行など積めそうに無いのだ。

 ゆるやかなコミュニティーということと、孤児院というか、経済的に困窮した子どもたちをゆるやかに保護し、教育の機会を与えてあげられるようなシステムを立ち上げられないかということを最近ずっと考えている。

 フランスにおいて、カトリーヌ・オンジョレさんによる「パラン・パル・ミル」という名の「半里親」援助活動をしている団体のことを、ある方に教えてもらった。里親といっても、養子にするのではなく、里親になりたい大人が自分の自由時間の中で他人の子供の面倒を見るという「半里親」の制度である。これは、僕の夢想する「ゆるやかなコミュニティー」というイメージと重なってくる。さらには、「教育の機会を与える」というような目的にも近づけそうであり、なによりこれは、善意の押し売りではなく、それぞれが求め合えるギブ&テイクの関係性でいられるのではないか。アンバランスな力関係の中、自己犠牲や奉仕の精神だけで支える活動の危うさは、ナイチンゲールも指摘していたと言うけれども、こういった方法であればうまくいくのではないかと思う。