オトメンと僕のトラウマ

血縁にまつわるもやもや

 親族の結婚式や葬儀などが続き、実に久しぶりにあれだけの親類が集まりました。

 血縁という関係性はありがたくもあり、ゲイとして生きる上ではこの上なく鬱陶しいこともあります。結婚へのプレッシャーなどもあり、僕にとって実家というのは必ずしも安らげる場では無くなってしまっています。僕が実家に安らぎを感じられない、特に父親とはあまり相容れないという感覚が、果たして僕がゲイであるということだけで説明が付くのかどうかはよく分かりません。しかし、とくに一人暮らしにすっかり慣れ、幼い頃に移り住み、その後高校卒業までを過ごした現在の実家よりも、もはや今の場所での一人での生活が長くなってしまった今、さらに実家が苦手になっていることにいろんなもやもやしたものを感じています。
 別段険悪な関係というわけではないのですが、なんとなく必要以上に近寄りたくないし、ゲイであるということをうち明けたい存在にも成り得ないんですよね。説明はしにくいんですけれども。特に父親には、ゲイであるということを除いた、他の僕の私的な部分にもあまり触れて欲しくはないんです。兄弟というのも滅多に連絡をとったり会ったりすることもない関係性で、特に何かを語り合いたいとも思えないんです。前にも書いたかも知れませんが、親しい友人の結婚式に出席したり、友人の子どもの成長をみたりしているときにもなんとも言えない「もやもや」を感じていたんですけれども、身内のそれに際して、比べものにならないもやもやを感じてしまったのかも知れません。血縁者に関して、未だに反抗期から抜け出せないのか、それ以外の理由なのか、ゲイであるということが一因なのか、単に僕の性格の問題なのか、心を許せないという自分を哀しく感じてしまうようなところもあり、ちょっと心のざわつきが押さえきれない感じです。

 年々、人付き合いを広げているようにも見えながら、実のところ自分の好き嫌いがより鮮明となりつつあり、好きな人間以外とのつきあいを極端に避け、また、一人の時間を欲する頻度が増えています。仕事の後、ちょっと買い物に寄ったりするのがたまらなく億劫で、早い時刻に病院を出ても自宅に直行し、かといって何もするでもないような日が、数年前に比べてやたらと増えているのです。酒も以前ほど呑めなくなったし、夜遊びがきつくなってる。年をとってしまったということなんでしょうか。

 ある友人が言っていたような感覚を実感しています。休みの日を心待ちにしていながら、休みの日が予定ガチガチで忙しすぎるのも嫌で、かといって予定が何にも無いのも嫌で、実際にはあれほど楽しみにしていた休みを無為に過ごしてしまうことが多いというようなことは僕も最近頓に感じているのです。仕事はそこそこ楽しいとは思うけれども、そこにすべてを集中してのし上がってやろうという思いはあんまりありません。外科医である以上、一人立ちするためにはもう少し努力が必要そうだけれども、そのためにプライベートがあまりにも犠牲になってしまうならば、メスをおくという選択肢は十分にあります。

父への距離

 父方の親類が亡くなって葬儀に出席しました。僕は極端に母方の親戚に偏ったつきあいをしていたのと、故人が実に九十年を生きた大往生ということで、あまり特別な感情がわき上がってきませんでした。そういった自分の冷たさが嫌になることも多々あります。

 考えてみれば、父方のいとこたちと会うのもおそらく十年ぶりくらいではないかと思います。父方・母方ともおおむねいとこたちは僕より少し年上くらいの世代です。いとこたちは結婚も割合早い時期にしているので、その子供のうちでも一番大きな子は中学校に通っています。いとこの子供となると、血縁としては結構遠い気もしますが、父方のいとこ同士はそれなりに行き来があって、いとこの子供同士も何度も会っているようです。そういえば、僕も母方のいとこの子供たちには頻回に会っていて、お年玉もあげています。

 父方の実家と母方の実家の距離は車で一時間はかからない程度なんですが、おおむね母方の実家に頼った生活をしていました。かつて母方の狭い実家に身を寄せたこともあったし、祖父母と離れての生活が始まった後も、しばらくの間、毎日母方の実家から小学校に通っていました。

 今回の葬儀に父方のいとこが時折涙をみせるのを冷静に見つめながら、そういえば母方の祖父母や叔父が亡くなった時には相応の深い思い出が蘇ったのを思い出しもしました。

 母の実家も田舎は田舎ですが、一応市制を敷いた町であり、母の実家は、今は寂れたといえ、市の中心の商店街の一角でした。それに対して、父の実家はそれは絵に描いたような村落で、店という店も無いし、田圃のあぜ道みたいなところ以外に家に到達する術のない環境です。周囲はほぼ全て田圃と畑、ただ家の裏手にあった竹藪は綺麗に消え去り、誰か知らない人の土地となって家が建っていて、村内電話番号四桁のみで通じた時代から、市町村合併で県庁所在地に吸収された今までの時の移ろいを少しは感じたりもしたのです。

 母方のいとこも含め、ほぼ全てが結婚した中で、親戚が雁首そろえる、しかも、村落のムラっぽさを存分に感じさせてくれる葬儀という場面が、不謹慎ながら故人を偲ぶことよりもむしろ、結婚しない人生を歩むということへの今更ながらの不安やいろいろをぐるぐるぐるぐる考えていまい、激しく心をざわつかせてしまったのです。

 折り悪く、先週まで平和というかヒマだった仕事も、久々の辛い手術と、その厳しい術後管理に始まり、また管理の厳しそうな症例を入院させたりなどかなり慌ただしく、そうした重症やら厄介ごとをまとめて急に上司にお任せしたまま、通夜と葬儀に出ていたこともあり、已むを得ないこととは言え、やっぱり医局や病院に長年洗脳されてきた奴隷労働者的な思考による罪悪感を感じてしまっています。それと同時に、ろくにお見舞いにもいかずに迎えた親類の死に対するもやもやとか、その死に関する自分の感情の薄さに対する嫌悪とか、ゲイである自分が「血縁」に対して感じる重いプレッシャーとか、負の感情がうねってしまってどうしようもないのですが、こうして文字にしてはき出すと落ち着くことが多いので、読む人の不快感とかを無視して書き殴っています。すみません。

オトメンと僕のトラウマ

 なんとなく録画しておいたテレビドラマ「オトメン(乙男)」を観る機会がありました。これは壮絶にトラウマをほじくりかえされるドラマでした。もちろん大抵の人にはこれは単なる娯楽であり、ファンタジーなのでしょうけれど。

 男らしさの中に乙女的な趣味を持っているが、それを恥じて外には出さない主人公。自分が幼い頃、父親が「本当は女になりたかった」と言って家を出てしまったことがトラウマになっている母親に「男らしく」育てられ、男性が乙女的であることを毛嫌いする母親に本当の自分を隠し続けて生きながらも、オトメンとしてのありのままの自分を受け入れてくれる友人たちとの日々に安らぎを覚えていきます。

 彼らの恋愛対象は女性であり、女になりたいわけではなく、あくまでも男性でありながら女性的な趣味を持っているというのがオトメンです。僕は恋愛対象が男性に向いているというだけで、そもそも女性的でありたいという願望はほとんどないから、オトメンとは特段共通点があるわけでもないけれど、心理的な部分ではいろいろ似ています。あと、もしかすると、僕は女性らしくありたいという願望を、自制して今に至った可能性もあるのです。幼い頃の僕は相当にオトメンだったし、基本的に男の子よりは女の子と女の子らしい遊びをしていたかったのです。

 推定すると恐らく2歳頃の誕生日の話だと思います。母親が、僕に誕生日プレゼントの希望をきいたことがあったらしいのです。僕はフランス人形を所望したらしいのですが、母親はとてもびっくりして、もっと男の子らしいものをと当時の僕に勧めたのだそうです。そんな話を笑い話として幼稚園生くらいの頃にきかされたのです。親としてはたわいのない話であり、笑い話なのかも知れないけれども、これは今日の僕にも強烈なトラウマを残しています。

 多分大人の顔色をうかがう癖はこの頃に始まったのだと思います。水が出るしかけになっている台所セットとかお洗濯セットみたいなものが欲しくても、それがチラシの「女の子向け」のおもちゃに分類されていれば、口が裂けてもそれが欲しいなんて言えませんでした。縁日で果物や野菜を模したおままごとセットを自分のお小遣いで買う時も、誰にきかれているわけでもないのに、「従姉妹にあげるんだ」とか妙な言い訳をしていたのです。

 本当につまらないことなのかも知れないけれども、僕の中では、僕の正直な気持ちが嘲笑われたフランス人形の思い出が強烈過ぎて、何となく肉親に心をすべて打ち明け難いのです。僕はオトメンの主人公ほど優しくは出来ていないので、母親を傷つけたくない、ショックを与えたくないというような他人を思いやる気持ちというよりは、自分自身がこれ以上傷つきたくないというようなほぼ利己的な思いから心を閉ざしてしまいがちです。オトメンの主人公が友人たちの前では正直に生きられたように、僕もカミングアウトがすんでいる仲間たちの中でこそ安らぎを得られるし、無神経に結婚の話題を振ってくるような、血縁という強烈な関係性が正直鬱陶しくて仕方がなくなることがあるのです。

 弟の結婚や祖母の葬儀など、親類と顔を合わせる機会が多かったこととも相まって、オトメンの母親という存在が、激しく僕のトラウマに触れた。「我慢の上には幸せは築けない」とか、「正直な人はほとんどいない。でもあなたにはそうあって欲しい」など、トラウマをえぐられたあとに感情を揺さぶる言葉が響くのです。原作は全く読んだことがないので、ドラマがどの程度原作を反映しているのかわからないのですが、ネット上での情報を拾い読みする限り、原作には「男らしさ・女らしさ」というものへの皮肉が随所に散りばめられているとのことです。今度読んでみようと思います。

 幼いながらに、親に養われなければ生きていけないと思っていたし、両親というところへの繋がりが切れてしまうことには絶望が伴うような気がしていました。それほど壮絶なことはなかったけれども、父親にはあまり理屈が通じなかったり、経済観念がおかしかったり、感情的で手が出やすいようなところがあって、それに対するいいようのない恐怖と不満が渦巻いてもいて、それについても未だに心を整理仕切れていない部分があるのです。それはただしかし、単に僕の幼さということなのかも知れません。