カミングアウトの最初のきっかけ

 同性愛者として生きていくために、重要なプロセスに、カミングアウトというものがあります。これは、本来、同性愛者が自分のセクシャリティを自覚し、それを受け入れ、その上で、自分のライフスタイルを確立していく過程すべてを包括する言葉です。転じて、社会的に抑圧されるような立場の人間が、それを公表すること、「告白」の部分のみに使われることが多いようです。カミングアウトのプロセスの中で、公表するプロセスは特に重要なものと考えられていますし、実際、当事者である僕らが、それを行うことは相当な勇気のいることです。カミングアウトというのが、本来は広い意味を持つということを知って頂いた上で、特に断りのない場合、「公表・告白」という狭義でのカミングアウトを使っていきます。
 僕が初めてカミングアウトしたのは、
http://d.hatena.ne.jp/deltoideus/20051103#p1
ここで既に述べたように、医者になって1年以上を経て、ようやく自分のセクシャリティを自覚するに至った時でした。広義のカミングアウトとしても、ここから始まっています。
 そこに至るまでに、いくつかきっかけがありました。思い出せる一番最初のきっかけは、何気ない会話でした。確か、まだ大学に入学したての頃に、統合失調症(当時は精神分裂病と呼称された)のことについて雑談していたのだと思います。よく、医師国家試験の合格率が司法試験に比べると驚くほど高い、だから医療の質が落ちるのだというような報道がされますが、誰にでも受験資格がある司法試験とは違い、まず大学医学部を卒業しなくては受験資格が与えられない医師国試では、話が全く違うのです。実のところ、高い倍率を勝ち抜いて医学部に入学してきたはずの人々が、大学在学中に相当数ドロップアウトしているのです。
 そのひとつは、純粋に学力によるものです。意外に思われるかも知れませんが、かえって高校時代までのエリートが挫折することも多いです。高校くらいまでは、それまでに学ぶすべてのことを端から端まで全て覚えるということが可能なんだと思います。医学という膨大な学問でそれができる人は、常識的には存在しません。高校まで成績が優秀だった人の中で、重要なポイントをわかった上で効率よく勉強している人は、その後も問題なく進んでいけるのですが、それまで重要なことも重箱の隅も一律に覚えようとしていた人はつまずきやすいと思います。ひとつのテストごとに、教科書何ページというレベルではなくて、それだけでひとつの学問体系である以上、みんなと足並みあわせて、情報や過去の遺産も大事にして、重要な点から修得していかない限りは、脱落してしまうのです。そうして、大きなテストの壁をこえられず、医学の道をあきらめるひとは少なくありません。
 ドロップアウトの原因として、もうひとつは、病気によるものです。もちろん、身体疾患もありますが、精神疾患も多いです。数パーセントという確率で語られる病気であれば、もちろん、100人ほどいる一学年に、その百分率の数だけいておかしくないのです。「しかし、そんな人はみたことなかった」と人は言うかも知れません。でもおそらく、それは社会から隠されたりして、気付かないだけなんだと思います。医学部において、ひとつは学生自身が躁鬱病や、統合失調症などの精神疾患についての知識があるために、一般人ではなかなか気付かないような点に気付くということがあります。これによって、集団の中に一定の割合で存在するそうした人の存在を理解します。もうひとつには、それなりに厳しい試験のプレッシャーによって、精神的に追いつめられて、精神疾患を発症しやすいということがあると思います。進級や卒業をかけた試験は数ヶ月に及ぶ場合もあるので、適当に息抜きしたり、効率の良い勉強を心がけないと、必ず息切れします。僕らは、よく冗談で、「こうやって、長丁場の試験で、睡眠不足とか強行軍を求められるけど、それに耐えられない人は、医者の仕事が無理だってことだから、学力云々よりも、まず、そういうことでふるいにかけているのかも知れない」なんて言っていました。しかし、案外それは真実かも知れません。実際の臨床の場では、納得行くまでいくらでも時間をかけて考えて良い場面というのはそれほど多くなくて、即座の判断を求められるわけです。また、患者さんの容態や急患への対応のためには、睡眠時間がとれないこともあるのです。
 話が相当脱線しましたが、その話の流れで、「同性愛者」の話題になったのです。「同性愛者も、数パーセントの割合で存在するという話なのだから、学年の中に数人いてもおかしくない」と同級生が言っていたのです。僕はおそらく、その時はじめてその数字をききました。もちろん、隠して生きている人が多いために、正確な統計などとれないでしょうけれど。当時の僕は、あまりにも同性愛の知識に乏しかったので、その数パーセントという数字は意外でした。もっともっと少数だと思っていたのです。このとき、それなら僕が同性愛者でもおかしくないと、多少は考えたのです。しかし、きちんと自覚するには至りませんでした。
 続きます。