キリスト教と同性愛

 宗教というのは、本来心の拠り所であり、道徳であり、倫理となりうるものだと思います。大筋で、尊いもの、正しいものであるはずです。その宗教が、たびたび同性愛を否定します。単に、誰かに否定されるということではなくて、「正しいもの」という前提の巨大なものに否定されるということがどういうことなのか、想像してみて下さい。単に、それが自分の自由意志でなんとかなることであり、普通に考えて、やはり悪であると思えるものなら、自分を正しい道へ進ませる力となるかも知れません。しかし、何度も述べてきているように、僕は、同性愛という感情は、自分がいろいろな可能性の中から選択したものということではなく、修正不可能な感情、個人そのものであると考えています。

 同性愛に対する宗教の態度は様々ですが、結局は、同性愛者というのは少数派であり、異性愛の観点からは理解されにくいものです。また、そのコミュニティにおいて、「生殖」による子孫繁栄、コミュニティの維持というものにおいてはマイナス方向へ働く可能性が高いため、許容することはあっても、同性愛が異性愛以上に奨励されたという話はあまり耳にしません。対して、同性愛を否定する宗教は多数存在しています。世界の大きな宗教の流れである、アブラハムの宗教(ユダヤ教キリスト教イスラム教)の多くで、どちらかというと、同性愛を否定しているようです。そして、その宗教に密着した文化圏において、同性愛は否定的にとらえられます。

 キリスト教圏の諸外国で、同性愛者の権利が守られたり、同性婚が認められたりする流れとは矛盾するように感じられるかも知れませんが、やはり、キリスト教の中でも、特に保守的な宗派においては、同性愛を禁じ、罰する立場をとることが多いようです。これは、例えば旧約聖書の中の律法と呼ばれる部分「レビ記」において、男性間の性行為を死刑と定めていることなどを根拠にしているようです。「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである」、「女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず処刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる」という記述です。しかし、同じ律法の中に、たとえば「結婚している兄が死んだら、家系を絶やさぬように、弟がお兄さんの妻と再婚しなさい」というような、おおよそ現代の我々の感覚からはかけ離れた掟があるわけで、聖書の一字一句を守って生きている人など、まず存在しないわけです。ちなみに、この中でイカやタコを食べることも禁じているようです。

 これらは、民族の存亡の危機と闘っていた、古代のイスラエル(ユダヤ人)が、民族の純血性を守りつつ、人口の維持をはかるため、常に男性中心に考え、異邦人をなるべく排除するという思想が前提にあるわけです。一貫して、あくまでイスラエルの男性を中心に考えており、男系の維持を前提にしています。女性はそもそも差別されています。女性は男性の所有物として扱い、女性を不浄のものしているのです。また、神が禁じたとされる行為は全て異邦人の行いとされました。例えば、「これらはすべて、あなたたちの前からわたしは追放しようとしている国々が行って、身を汚していることである」(レビ記)のような記述です。これらから、僕らは学校で「ユダヤ人だけが救われるというユダヤ教に疑問を感じてキリスト教がおこった」と学んだのです。

 キリスト教の中でも、同性愛者に理解をしめす人々は、レビ記を「真剣に愛を交わした間以外での性行為が罪だ」という考え方としてとらえ、ならば真剣に恋愛する同性間の恋愛が咎められるいわれはないのではないかと考えているようです。少なくとも、レビ記を根拠に同性愛者を罪とするなら、世の中で婚前交渉をするようなすべての人々が罪に問われるべきです。もっとすすんで考えれば、歴史的な背景やその文脈を無視して、全く違う状況の現代において、聖書の文言を一字一句すべて原理的に捉えるということ自体がナンセンスだとも言えます。

 聖書の文言にとらわれすぎれば、はっきりと同性愛者を認めるということはなかなかされません。保守派が「同性愛者の存在」「同性間で愛情を抱き合う」こと自体を罪とするのに対し、リベラルな宗派は「これらも神の意思に従った自然なことである」としていたりもします。しかしその場合も、性行為自体は禁じているものが多いようです。「人はみな罪人です。しかし、イエス・キリストが十字架に架かり、赦しが与えられたのです。だから、同性愛も赦されています」という口上で、あたかも同性愛者に理解を示しているかのようにみせる聖職者がいます。しかし、そこで、人間全ての罪と曖昧な物言いのまま、その罪を同性愛に限定しているところがどうにもおかしいのです。これは、結局、赦されてはいるけれど、同性愛は罪であり、悔い改めよということなのでしょうか。「同性愛も異性愛も罪なのです」と言えば、みなに平等に罪を説くことになります。しかし、そういうことはなく、「赦し」を隠れ蓑にした同性愛差別に他ならないのです。これは、同性愛者にとって、救われるどころか、さらに追いつめられるところとなります。

 ちなみに、前ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、「同性愛は個人の選択である」と述べていました。ここでいう選択とは、異性愛との選択、あるいは禁欲との選択といったところだと思います。いずれにせよ、修正不可能な指向としての同性愛を認めない方向でした。新法王ベネディクト16世は、男女の結婚に基づく家庭の重視、妊娠中絶や同性愛の否定など、現法王の保守的な路線を支持しており、同性愛や同性婚をはっきりと非難していました。今後しばらく、カトリックの総本山は、同性愛を認めないことがはっきりしました。

 ゲイにとっての権利が認められているというイメージのあるアメリカ合衆国において、ソドミー法という、同性愛禁止法が残っている州が存在します。2003年6月26日、連邦最高裁判所はローレンス対テキサス州事件において、同州のソドミー法に対し違憲判決を下しました。この判決により、ソドミー法を合憲とした1986年のバウアーズ対ハードウィック事件判決は覆され、また他州のソドミー禁止法も違憲とされました。この事件はヒューストン在住の男性、ジョン・ローレンスさんとタイロン・ガーナーさんが、1998年に武装した侵入者を捜索してローレンスさんの自宅に入った警察が、偶然彼らの性行為を発見したため、ソドミー法で有罪とされていたのを、不当として訴えていたものです。二人はこの法令により逮捕され、その後有罪判決を受けて200ドルの罰金と裁判費用の支払いを命じられていました。連邦最高裁判所違憲判決というのも判事の総意というわけではなく、この問題の根の深さを感じさせます。違憲とされてなお、保守的な多くの州にこの法律が残り、最大終身刑を規定したままとなっています。

 ちなみに、ソドミーとは、聖書に記された、神の怒りに触れて滅ぼされたソドムという町が語源です。ことさらに、この町の人間が「同性愛」の罪によって神の怒りに触れたということが言われています。しかし、ここには先述の、ユダヤ民族意識による、他民族の排除という考え方が根底にあります。また、同性愛ということによって滅ぼされたということがはっきり書かれているわけでもないようです。

 創世記で主なる神はアブラハムに「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」と告げます。それに対し、アブラハムは最終的に、十人の正しい者がいれば町を滅ぼさないという約束をもらいます。しかし、結局、正しい者は十人に満たず、滅ぼされるのですが。神は、ソドムの町を見定めようと、ソドムの町にある、アブラハムの親類であるロトの家に、二人の御使いを訪れさせます。すると、そこにソドムの男たちが「お前のところに来た連中をここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」とおしかけてきます。二人の御使いは男性であり、これをなぶりものにするということで、ソドムの町の男性が同性愛者であると解釈され、また、その罪でソドムが滅ぼされたということにされています。

 さて、もう少し創世記を読んでみると、ロトは、家に押し掛けてきた男たちに、自分の娘を差し出し、好きなようにしてくれと言うのです。そのかわり、御使いには何もするな、と。ここは否定的に描かれていません。客人を守るために、自分の娘を強姦せよということは、その後罪に問われていません。前に述べたように、あくまでユダヤの男性のための観点であり、女性の権利など認められていないようです。さらには、ソドムから逃れたロトと娘は、子孫を絶やさないために、父親と肉体関係を持ちます。この近親相姦も罪としては描かれません。

 このように、聖書を原理主義的に、一字一句そのままに読むと、現代の倫理観にはあまりにもそぐわないことであることが明らかで、殊更に同性愛だけを抜き出して批判する根拠はないとも考えられます。

 さて、ここまでは旧約聖書の話でした。キリストと神との契約の後の新訳聖書の中では同性愛がどのように扱われているのかと言えば、やはり文字通りに読む限りは否定的に扱われているようです。ローマの信徒への手紙によると「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています」とあります。これに関しては、同性愛行為というもの自体を非難するというよりは、当時のローマの神々を祭る神殿での、神と交わる儀式、いわゆる、神殿娼婦・神殿男娼との性の儀式を非難していたのではないか、という解釈もされています。

 その他では「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません」(コリントの信徒への手紙)や、「すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです」(テモテへの手紙)で「男色」という言葉が用いられ、ここはたびたびキリスト教に基づいた宗教団体が、同性愛を否定する時に引用する場所でもあります。ただ、ここで述べられている男色というのが、男性同士の真剣な恋愛に基づいたものということではなく、当時問題とされた、誘拐されてきた少年を売り物にした売買春のことであるという解釈もされているようです。

 ちなみに、レズビアンに関して直接的に否定する言及はされていないようです。前述の如く、女性差別的な記述は数多くありますが。

 僕自身はキリスト教徒ではありませんが、手に入る範囲の聖書、聖書の解説、キリスト教関係者の様々な立場からのコメントなどを自分なりにまとめてみました。キリスト教徒でもない人間が、聖書に関してあれこれ言うのが良いことなのか悪いことなのか判断しかねますが、世界の大きな宗教の一つに、自分のセクシャリティを否定されたままでは気分が悪いので、自分なりに調べてみたというだけの話です。誤解も多いとは思うのですが、少なくとも、聖書を盾に、僕らの性的指向を否定されるいわれはないと考えているのですが、いかがでしょうか。

 今後、イスラム教の話へ続けて行きます。