現在までのカミングアウト

 また、しばらく間が空いてしまいました。話の流れとしては、
http://d.hatena.ne.jp/deltoideus/20060120#p1
の続きです。メルマガのバックナンバーが一番時系列がわかりやすいかも知れません。
http://blog.mag2.com/m/log/0000175084

 さて、今までカミングアウトの話を続けてきました。ネット上で知り合いがゲイだということを知り、その彼にカミングアウトしたのを皮切りに、共通の知り合いを中心にカミングアウトをすすめて行きました。まずは、僕が今でも少なからず好意を抱いているノンケ(異性愛者)の友人に、続いて、恋愛感情は抱いていないものの、そのことがかえって貴重な存在でもある、大切な友人に。

 前回書くのをすっかり忘れていましたが、3人目の相手(ノンケとしては2人目)にカミングアウトをする際に、1人目の相手がゲイだという話題を持ち出してしまったのです。そのゲイの友人は、既に多くの共通の友人にカミングアウトをすすめていたし、僕が3人目にカミングアウトした相手は、僕がゲイだということに気付いているのではないか、という話をしていたこともあって、当然、1人目の相手がゲイであることを知っているとばかり思っていたのです。結局、僕は3人目の相手に、勝手にもうひとつのカミングアウトをしてしまったことになってしまったのです。その日のうちに電話で平謝りしたのですが、ゲイの彼は「まあ、彼にはいずれ話すつもりだったし、いいですよ」と許してくれました。その後のカミングアウトには慎重を期したことはいうまでもありませんが、いまだに、僕がカミングアウトした友人と、彼がカミングアウトした友人というのが完全に一致していないのです。交友関係は、結構かぶっているところがあるのですが、お互いにとって、カミングアウトするべき人間が違うのだから、それは当然と言えば当然なんですが。過去何度も書いているように、無尽蔵にカミングアウトするつもりは、僕も彼も今のところないのです。

 4人目のカミングアウトの対象も、後日訊いたところによると、ゲイの彼はカミングアウトしていない相手みたいです。もう、カミングアウトするつもり満々で、あるバーへ呑みに出かけたのですが、そこにカミングアウトは想定していない知人のカップルが先客でいたので、普通に呑んだあと、電話でやりとりすることになったのです。勇気がなくなりそうだったので、帰る時点で、「大事な話があったのだけれど、あの環境では話せなかったので、電話で今日のうちに話したい」と宣言し、自らを逃げられないようにしておきました。それで、帰宅したあと、布団にくるまって長電話し、延々関係ない話をしたり、前置きを長々と語ったり、沈黙を挟んだりしながら、「唐突なんだけど、僕、ゲイなんだよね。これを隠したままつきあっていくのが相当辛いので。告白は自己満足なのかも知れないけれど」というようなことを一気に言ったのです。ノンケに対しては、この3人目にしてはじめて、自分の口から、はっきりと自分が「ゲイ」だと言ったのです。彼は、既にゲイの知り合いがいたというようなことを少し話したあと、「まあ、今回の話よりは、delさんが本を出したという話を聞いたときのほうがびっくりしましたよ」と言われました。この話のずれ具合が、なんだか暖かくて、すごくほっとして、嬉しかったのを覚えています。ノンケ1人目の相手は、どちらかというと、ゲイの社会のことについて興味を持っていろいろきいてきたりしましたが、この時の彼は、カミングアウトの時の返事ほぼそのままの関係が続いています。僕と彼との関係には、僕がゲイであることはほぼ関係のないことだったのでしょう。これもひとつの良好な形だと思います。変化といえば、自分の持っているノンケ向けエロDVDの話題などを振ってこなくなったということくらいでしょうか。今でも仲良くさせてもらっています。ちなみに、本というのはあまり気にしないでください。一応著作があるのです、僕。

 このあたりで相当勢いづいていて、僕は「カミングアウトブーム」の大波の中に身を投じます。家に趣味で細々とやっているバンドメンバーを招いて、2人に同時にカミングアウトしたときは、リアクションは相当薄かったのですが、後日訊くところによると、あまりの衝撃にリアクションがとれなかったとのことでした。彼らも、同性愛自体の話題にはそれほどつっこんできませんが、僕がカミングアウトも含め、いろんな弱みなどもみせることにより、彼らは彼らの悩みを語ってくれるような機会も増えました。それまでは、彼らが僕よりかなり年下ということもあり、それなりの壁のようなものもあったのですが、カミングアウト以降、どんどん距離が近くなっている気がします。当時彼らは他学部の大学院生だったのですが、院を卒業し、就職、住む場所がバラバラになってなお、たまにライブを演っています。その他に数人のバンドメンバーがいますが、一人をのぞいて全てカミングアウトがすんでいます。最後の一人は、してもいいんですけれど、別にしなくてもいいような。その理由はうまく説明できないんですけれど。

 その他、既にカミングアウトしてある友人から「話がめんどくさいから」別の友人にもカミングアウトしちゃえば、と言われてその通りにしてしまったり。別にカミングアウトするつもりはなかったのに、呑んでいるうちに内面をいろいろ語り出して、結局カミングアウトしたり。そうすると、そうやって新たにカミングアウトした相手に関係の深い相手、例えば恋人などにもするとか、嵐のようにカミングアウトが進みました。ブームに乗っかって、それほど接点のない相手にもカミングアウトしまくった時期です。幸いなことに、今までにカミングアウトによって関係が悪化したことはありません。カミングアウト相手が、全ての感情を感想として語ってはいないと思います。社会にあまりおおっぴらにゲイというマイノリティーが存在せず、「異常」であると刷り込まれているような現状ですから、負の感情を抱くことも別に悪いことではなく、自然なことだと思います。

 ネット上で「親友にカミングアウトを受けたものの、それに嫌悪感のようなものを抱いてしまう自分に悩んでしまう」というような状況を綴った物がありました。
http://d.hatena.ne.jp/deltoideus/20051126#p1
 以前も書いたように、カミングアウトというのが、理解を求めるもの、と考えてしまうと、お互いに辛くなってしまうと思います。これは、別に同性愛という性的指向に限った話ではなくて、相手のことを真の意味で「理解」するのは非常に難しいことだと思うからです。だから「理解が足りない」ことを苦にすることはないと思うし、それは「若干の差別者」とは限らないと思うんです。僕個人的には、カミングアウトを受けてなお、「大切な友達」だと思っているという、その感情で必要十分だと思います。これも僕の個人的見解ですが、受け入れろ、理解しろ、っていう思いよりも、自分を偽りたくない、嘘をつかないで話したいという思いが強いと思うし、なにか重いものを相手に押しつけるようなこともしたくないのです。

ブロークバック・マウンテン

アン・リー監督作品も禁止 中国
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060129-00000081-kyodo-ent

ゴールデン・グローブ賞で作品賞などを今月受賞した映画「ブロークバック・マウンテン」(アン・リー監督)が、中国本土では上映されない見通しとなった。同性愛を描いた作品のため「テーマが敏感」として中国当局が上映を禁じたという。

ブロークバック・マウンテン」を上映中止 ユタ州の映画館
http://cnn.co.jp/showbiz/CNN200601090013.html

配給元のフォーカス・フィーチャーズによると、上映開始の数時間前になって、映画館側が「ライセンス契約に違反した」ため、上映を拒否したという。

ユタ州保守系団体「ユタ・イーグル・フォーラム」のゲイル・ルジチカ会長は、この映画の上映中止はユタ州の人々にとって良い手本を示したと歓迎。「上映が中止になったことで、この作品のどこかに問題があるのだと、若者にも分かるだろう」と話している。

一方、ユタ州の同性愛権利拡張団体のマイク・トンプソン事務局長は、「これだけ美しく、前評判が良くて映画賞も取っている作品を、個人的な偏見でユタ州の人々に見せないのは、残念なことだ」と語っている。

以下、ネタバレが含まれますが、「男らしい」カウボーイ社会の根底にあるゲイへの憎悪など。
ゲイ西部劇『ブロークバック・マウンテン』。男はみんなゲイである(ネタバレ注意)
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20051221

アニー・プルーが原作小説を「ニューヨーカー」誌に発表したのは1997年だが、
翌1998年、小説の内容が現実になった。
プルーの家に近いワイオミング州ララミーで、ゲイの大学生マシュー・シェパードが二人の男に牧場でリンチされ、フェンスに縛られて絶命するという事件が起こったのだ。
カウボーイは日本のサムライと同じく、アメリカ人の男らしさの象徴である。
カントリー&ウェスタンを聴くような西部や南部の男たちは保守的で過剰に男らしさに執着し、ゲイを憎む傾向がある。

日本で同性愛者が権利運動を大々的に行うことが、海外に比べて少ないのは、もともと、日本では同性愛者がそれほど抑圧されていなかった、という考え方があります。差別されていないわけではないですが、少なくとも、宗教や法律で同性愛を禁じませんでした。ゲイに関しての理解が進んでいると思われがちなアメリカですら、田舎の保守派という人々は、今でも相当にゲイを憎んでいるし、宗教者がゲイへの差別を正当化したり、法律で「同性愛」ということ自体を処罰の対象としているのです。日本では、そこまで激烈なゲイへの憎悪というものがあまりなかったようです。

ゲイ in Japan

ニューズウィーク日本版 2006-1・25号(1/18発売)
http://newsweekjapan.hankyu-com.co.jp/

Cover Story
ハードゲイを演じる芸人が人気になる一方で、カミングアウトする人が増加。推定500万人の「普通」の同性愛者たちの生活とは

 コンビニで見あたらなかったので、書店を探して購入しました。おそらく相手は僕のことをほとんど認識していないと思いますが、実際にお会いしたことのある方が何名か記事に登場していました。日本版のみの記事ですが、世界的な雑誌にトップとしてこういう話題がとりあげられることは嬉しいことです。少なくとも、もはや「触れてはいけない話題」ではなくなってきていると思います。社会がマイノリティに優しい方向へすすみますように。

カミングアウトブーム

 だいぶ間があいてしまいました。僕の最初のカミングアウトの後の話を綴ってみます。
 最初のカミングアウトがどう転ぶかというのは、その後の行動に大きな影響を及ぼすことになります。僕は幸い、カミングアウトによって関係をまずくした例はないのですが、中には、家族へカミングアウトしたものの拒絶され、親子の縁すら危うくしてしまったという人も少なからず存在するのです。ただでさえ心細い状態で生きてきて、本来、一番理解してくれる、守ってくれることを期待される存在である肉親に否定されるというのは相当なトラウマになります。しかも、これは別段何か悪いことを報告するわけではないのです。自分で選択したわけではなく、そして、変更可能なわけではない事項に関して、それでも社会的には差別されるという存在。ある友人は、「例えば先天性の疾患を持って産まれて来たとすれば、同情を買い守られる。同性愛という性的指向に関してはそういうことがないのはおかしい」といった表現をしていました。これは、先天性疾患を持った当事者にしてみれば異論の多いところでしょう。僕もそのまま素直に受け止めることはできません。しかし、友人がそういう言葉を吐いた気持ちはわかります。
 同性愛という性的指向がどのように定着するのかはいろんなことが言われていますが、少なくとも、「同性愛者に生んでしまってごめんなさい」というような守られ方はおかしいと思いますし、同情を買うべき存在とも思いません。当事者ではないので憶測ですが、これは、先天性疾患の方々が、一方的に同情の目にさらされることに対して感じる違和感と似たような感情ではないかと思っています。
 まあとにかく、なんで悪いことをしているわけでもないのに、他人に正直に自分のことを語ることに、相当な勇気と体力をつかわなくてはいけないのかということを、どうしてもしばしば考えてはしまうのです。僕もそんなことをつらつら考えながら、最初はゲイだと一方的に知っていた友人へカミングアウト、その後、ノンケ(異性愛者)への始めてのカミングアウトをしたのです。そして、それはおおむね良好な結果でした。この最初のふたりに関して言うと、カミングアウトによって関係をより良くしたと言えると思います。
 そうすると、それに気を良くして、さらにカミングアウトを広げて行こうという興奮状態におかれました。本当に、あの一時期は、相当に気持ちの高ぶっていた時期でした。カミングアウトをすませたふたりと会話をする中で、また別の共通の知人の名前があがって、どういう理由だかわかりませんが、その彼は僕の性的指向に気付いているのではないかという話になったのです。
 僕がゲイだということをふせた別のサイトを運営していたということを以前述べました。そのサイトは、相当現実社会にばれていたのですが、そんな中で、僕は徐々にゲイの知り合いのサイトと交流をはかったり、自分の恋愛感情が一般的なそれとは違うこと、おそらく結婚はしないだろうという結婚観についてなど、最初にカミングアウトしたゲイ曰く「危うい」ことをしていました。普段の言動だけでなく、もちろん、そういうサイトからの情報ということもあったのでしょうけれど、この、まもなくノンケとしては二人目にカミングアウトすることになる男は、現時点で、僕がカミングアウトする前に既に僕がゲイだと気付いていた唯一の男なのです。
 確か、最初のノンケへのカミングアウト後まもなく、ふたりで呑みに行った寿司屋のカウンターでカミングアウトしたのでした。「だって、先輩、いろいろ辛そうでしたから。隠さず話すことで、少しでも楽に、自然になれるといいですね」とかいうようなことを言われたのです。当時、カミングアウトをする度にもらうこうした言葉が、麻薬のように僕の気分を高揚させまくったのです。
 彼は、いろいろ敏感なんでしょうね。今でも多くを語らないうちにいろんなことをくみ取ってくれるのです。最初にカミングアウトしたノンケも大切な友人なのですけれど、彼はなんとなく考え方とか行動とかいろんなところで、いわゆる多数派のノンケとはかなり異なったところにいます。ひとくくりにするのは意味がないですけれど、むしろゲイ的な考え方とでも言うような感じなのです。対して、二人目のノンケは、僕がゲイであるということを知って、そのまま自然に受け止めたのですけれど、良い意味で、それによって関係性が全くかわらなかったというような立ち位置なのです。最初のノンケとは、関係性が深くなった気がするので、それはそれで大切なのですけれど、こういった、関係性に変化のないという関係も大切だと思います。いろいろわかんないこと言ってますけど、二人目のノンケには好きではあるけれど、恋愛感情を抱かずにすんでいるっていうだけの話かも知れません。しかし、固有名詞使わないと意味がわからなくなる文章ですね。あまり好きではないのですが、仮名をあてた方がよいかも知れません。検討してみます。
 もう少し続きます。

危機一「発」

 上のエントリの引用文では、両方正しい漢字の「危機一髪」を使っていましたが、商品名としては「髪」ではなくて「発」が正しいのでしょうね。中学生くらいのとき、漢字テストの答え合わせの時、国語教師がウンチクたれたのをまだ覚えています。もともと、007シリーズの邦題に、わざと誤用した「発」を使ったのに端を発しているのだと思います。wikipediaによれば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/007_%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%82%88%E3%82%8A%E6%84%9B%E3%82%92%E3%81%93%E3%82%81%E3%81%A6

1964年4月の公開当時の邦題の「危機一発」は、髪の毛一本の僅差で生じる危機的状況を意味する「危機一髪」と銃弾「一発」をかけた一種の洒落で、当時ユナイト映画の宣伝部にいた映画評論家の水野晴郎が考案したとされる。その後、「危機一発」という語句は「ドラゴン危機一発」や「黒ひげ危機一発」でも用いられた。

HG、追記。

http://d.hatena.ne.jp/deltoideus/20051206#p1
http://d.hatena.ne.jp/deltoideus/20051223#p1
↑このあたりにつらつら書いたことの追記。下にURLを挙げたテキストを読んで、いろいろ思うところがありました。
http://queermusicexperience.blog10.fc2.com/blog-entry-58.html

藤井隆は、ゲイという「性的指向そのもの」を笑いのネタにしたことはない。

しかし、レイザーラモンHGは、本当はストレートでありながら、「誰々のお相手をしたい」と語り、「性的指向そのもの」を笑いのネタにして、セクシャルな要素を前に出した。

そのことによって、レイザーラモンHGは、
「ストレートの芸人であっても、ゲイのセックスに関する話題で笑いをとるのはOKなのだ、許されるのだ」
という前例を作ってしまった。

 以前、僕は、レイザーラモンHGが行うような芸に対して、それほど違和感は無いというように書いたけれど、強いて違和感を挙げるならば、このエントリの記述のようなことなんだと思います。ゲイに限らず、「多数派ではないもの」を笑いにするということが非常に多く行われています。僕自身は、そのすべてを「差別だ!」と大騒ぎすることは無いとは思うのですが、上品な笑いでは無いし、差別と感じる人が多いのも事実です。

誰かが痛みの声を上げない限り、それらの人々は、どこまでもゲイというセクシャリティの「歪曲」をエスカレートさせ、それをさらに拡大させていく恐れがある、ということではないのか?

問題の核心は、「黒ひゲイ危機一発」という商品1つだけにあるのではない。

個人的には、「黒ひゲイ危機一髪」という商品そのものが、同性愛者差別を植え付ける劣悪なものであるとは思わない。

ただ、どこかで誰かがこうした流行に反対の声を挙げなければ、レイザーラモンHGが確立した芸風は、HG本人のコントロールを離れて、どんどん差別的な方向にエスカレートしていく可能性があるように思うのだ。

 非常によくわかります。STN21(セクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク)という団体の行為が、少々行き過ぎているのではないか、という思いは変わりませんが、差別的だと感じたことに対して、「声をあげる」ということは、必要なことだと思います。STN21が正しいのかどうか僕にはわかりませんし、僕の感情とは異なった方向を向いていることは確かですけれど。ちびくろ・さんぼにしても、カルピスのマークにしても、あれが無くなったり、復活したりしたこと、どれが正しいのかということはわかりません。

正しいか間違っているかではないんです。

今回のゲーム発売を差別と感じた人たちがいるのは事実。

基準もないのに、それを「間違っている」と断じることは誰にもできません。

 難しいですね。
 ちなみに、もうひとつ参考URLをあげておきます。
http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50284231.html

ホモ教師団体が黒ヒゲイ危機一髪に抗議 「在日朝鮮人危機一髪でも発売するのか」

ま、それでも今回の抗議がおかしいことには違いないけど。
「黒ヒゲイ危機一髪」はゲイのゲームではなくて、ハードゲイのゲームだろ。ハードゲイ本人に「ホモのイメージを悪くする」と抗議するなら理解できるけど、トミーに抗議するのは筋違い。

ハードゲイはむしろ、ゲイの敷居を低くしただろ。
話術の巧みなゲイバーの人がよくテレビに出てるが、ああいう人にはむしろ好感を持つ。オープンに明るくやるのが一番。
変に権利を振りかざして、抗議ネタにする方がゲイに対する印象を悪くしてる。

 僕もSTN21の反応が過剰だと思うし、そのやり方に積極的に賛同する立場ではないのは、以前書いた通りです。ただ、このテキストのような、非常に差別的な記述はいただけません。まあ、タイトルの付け方からして、非常に感じが悪いし、この方がゲイに理解を示しているとは到底感じられないのですけれど。
 レイザーラモンHGは、多種多様なゲイの中で、ハードゲイという人々を模した芸をしているものですので、ハードゲイ個人に抗議云々という主張もなんだかよくわかりません。また、僕も以前述べているように、レイザーラモンHGはゲイでもなんでもないし、あの芸も別にゲイの特徴では無く、彼の出現がゲイの敷居を低くしたなんてことはないと思いますし。
 あと、前回書こうと思ってうまく書けなかったことを書いておきます。結局、ゲイの中でもいろんな考えがあるわけですが、社会に対して声をあげるのは、今回のSTN21のように、やや極端かなと思えるような方法になってしまいます。これは当然といえば当然で、そこまで社会に対して強い不満が無ければ声をあげないからです。ただ、こうして強い声をあげるのがゲイの総意ということでもないので、強い主張ではないゲイの本音というのが、もう少し社会に届くといいなと思っているのです。
 思っていることが漠然としすぎていて、やっぱりうまく書けませんでした。

あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます。皆様いかがおすごしでしょうか。
 おそらく多くの医者たちは、僕と同様元日には仕事始め、当直病院を転々と、という状況かと思います。それでも、僕は今年、運良く年末に少しフリーな日があったので、久しぶりに少し帰省しました。帰省が楽しいというわけでもないのですけれど。
 どうやら僕も社会的には結婚適齢期と言われる年齢にいるので、やはり帰省すればそういう話題が出てくることもあります。両親にはカミングアウトしていないのです。僕はかなり先手をうって、自分の職業の忙しさ、引っ越しの多さ、海外留学の可能性などを理由に、まだ当分結婚する気はないし、必ずしも結婚が必要とも思わないので、結婚しない人生も考えている、というような内容を、やんわりと伝えています。無論、幸い生活も完全に自立しており、さらには実家に援助をしている状況です。そうして、強く結婚を迫るような話題は出しにくい土壌をつくっています。
 もっとも、単に結婚の話題が出やすいということだけが帰省が楽しくない理由ではありません。実家を遠ざける大きな理由に、父親との関係性があるのです。そして、これは家族にカミングアウトしていない、そして、今後もするつもりがないということを考えるに至る、大きな原因でもあるのです。意味深に書いていますが、言葉の裏にそれほど何かを隠しているわけでもありません。このあたりは、後日また語るかも知れません。「後日語る」ばっかりでしつこくてすみません。
 さて、現実問題として、自分の性的思考に正直に生きる結果、僕は異性間の結婚、子づくりは不可能です。本当は、結婚にも憧れているし、自分の子を育ててみたいと思っているのです。恋愛感情を廃絶すれば、擬似的に夫婦になったり、子供をつくることは可能でしょうが、これはいろいろなところにほころびをつくり、犠牲が大きな気がするので実行する気にはなれませんが。
 僕の好きな本に「ウィーツィ・バット」という一連のシリーズがあります。

ウィーツィ・バット―ウィーツィ・バットブックス〈1〉 (創元コンテンポラリ)

ウィーツィ・バット―ウィーツィ・バットブックス〈1〉 (創元コンテンポラリ)

この作品の中で、ゲイのカップルと女の子の奇妙な関係性について描かれています。この作品は大好きで、作中での、この関係性と出産はごく自然なことのように思え、理想的に感じてしまったりもするのですが、これはやはりファンタジーであって、そのまま現実社会に当てはめるのは難しいな、と思っています。実社会に、カミングアウトしたゲイと女性と子供という関係性を保っている例もあるようですけれど、これが完全に一般的なものかと言われると、そうではないとも思うのです。結婚・出産に関しては、自分の感情が相当混乱しているので、文章もとりとめがなくてすみません。
 さて、話題を戻します。もちろん、家族以外からも、結婚の話題を振られることがあります。たいていはうやむやにしてしまえばあきらめるのですが、中にはしつこい人がいます。彼女がいるのか、という問いに、正直にいないと答えても、勝手にいると設定した上であれこれこと細かくきいてくる人間は多いのです。家族という関係は、血縁者として逃れようがないので、こうした質問をかわすための土壌をつくっているのは前述の通りですが、そうでない知人との間ではなかなか難しいです。特に、カミングアウトした関係を築きたいと思えるような相手でなければ、もうその会話全てが鬱陶しくなるし、正直こうした話題が延々続いた時点で気分は最低、呑み会でこういった人に捕まると、もう早く帰ることしか考えられなくなります。得てして、カミングアウトしたいと思うような相手は、カミングアウト以前であっても、僕が嫌だというそぶりを見せれば、適度に引いてくれる人々でした。ある程度親しくしていてなお、なんとなくカミングアウトできないでいる人間の多くは、こういった、結婚・恋愛、あるいは男女間のエロ話がかなり好きでした。それでも、ある線のところで引いてくれれば耐えられますが、域値をこえ続ける人とは交友関係を保つのが難しいです。
 また、こういう直接の攻撃以外に、多数に向けたもっともらしい発言に傷つくことも多いです。僕はいいかげんなれてきましたが、まだ自覚がはっきりとしないような、未成熟なゲイに対してはそうとう鋭い刃です。宗教団体の「同性愛は罪」という説教だったり、自称教育者の「出生率が下がってるのなら、結婚できない男女を強制的に結婚させて子供を産ませろ」なんていう、同性愛者ばかりか、不妊その他で悩む方々をも強く侮辱するような、とてつもなく下品な主張とか。お笑いのホモネタとか、ゲイのおもちゃなんかとは次元の違うことなのです。以前にも述べているように、僕はそれほど「ホモネタ」などには思い入れはありません。むしろ、こういう一見して正義的な主張がやっかいだと思っていますがいかがでしょうか。
 もともとは新年の挨拶のつもりでした。今年もよろしくお願いします。メルマガもぼちぼち次号を発行します。今月半ばまでには。